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秋葉原の事件に寄せるでもなく――その二

 殺意と暴力、殺す側/殺される側、仕事と暴力……といったところがテーマとして浮かび上がりつつある気がする。今日は手近なところ、仕事と殺意について考えてみる。


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1.
 1975年に生まれ、1999年に就職した。就職協定が無くなって2年目。正社員としての採用。学生時代アルバイトをしたこともあったが、そう長いものではないので、労働経験としてはほぼ今いるこの会社のみ。生田武志さんの表現を一部お借りすれば、椅子取りゲームの、椅子に座ったほうであることに間違いはない。


2.
 自分が椅子をとったことで座れなくなった誰かがいたかもしれない。が、目に見える範囲でそう感じ取れるわけでは必ずしもない。複数の内定をとった上で断ったのならひょっとするとより具体的なイメージがわき起こったかもしれない。が、この会社しか決まらなかった。ちなみに、大学もいわゆる「滑り止め」にはすべて落ちた。高校は、滑り止め二校に受かったけれども。


3.
 誰かの何かを奪ったかもしれない、という意識が少しは具体的に芽生えたように思えるのは、ほぼ同世代の「論客」が書いたものを読んでからのような気がする。この数年のことだ。でも、何かを奪ったかもしれない誰かに対して、具体的な何ごとかをしたことはない。欺瞞や偽善が潜んでいるだろう。そういったところで何ともなるわけもなく、かえって人を不愉快にさせてしまうだけだ。かといって開き直ることもできない。自覚的な日和見主義者ではある。


4.
 誰かの書いたものを手掛かりにうだうだ考えることは、それでも考えることをやめればとりあえずは逃れられる。自分と同い年か、あるいはそれ以上の年齢の、男性の契約スタッフと一緒に仕事をしていると、「問い」は否応なしにやってくる。


5.
 自分と同い年、あるいはそれ以上の年齢の女性契約スタッフとも仕事をした経験はある。その時にはあまり想像力は起動しなかった。ジェンダー的な問題系に無関心なほうではないつもりだったが、所詮はこんなものだったのだろう。自分へのどうしようもない絶望が、ここにはある。


6.
 毎月の身入りの差だけでなく、1年ごとに契約を更新するということの持つ意味を想像することの難しさ。会社への文句は山ほどあるが、それでも何かを我慢するなり無理をするなりすれば、一応継続して会社にいることは出来る。倒産しちまえば別だし、斜陽産業の本屋業界、何が起きるか分からないけれど、しかし、一応はそういうことになっている。10年後、20年後を何かしらの形で想像することは出来る。1年ごとの契約だった場合に、今自分なりに想像しているような10年後、20年後の姿を思い浮かべることは出来ないだろう、ということだけは理解できる。


7.
 結果思い通りにいくことなんてそうそうない。だとしても、それなりに食いぶちを稼ぎ続けられそうかどうか、という予感をさせるほどの「保障」があるかどうかは大きなことだ。僕にはその「保障」が――たとえ嘘だとしても――感じられるが、そうしたものを感じ取る条件のないスタッフと一緒に、より具体的にはそうしたスタッフに「指示」をしながら、仕事をやっている。僕もいわゆる労働者ではあるのだろうが、いやな言い方をすれば、最下層ではない労働者になるわけだ。


8.
 人を使うのも苦労する、というのはひとつの真理だろうが、そういったところでせいぜいよきマネジャーたれ、という程度のこと。それはそれで実に難しいし、必要なことでもある。だけど、指の隙間から砂がこぼれるがごとく、そうしたビジネス書的発想だけではすくいとれない問題群が、ある。


9.
 メンヘル的な困難を抱えていて雑用程度しか出来ない正社員と、人並みに仕事の出来る契約スタッフとの給料差は倍以上の差がある。どちらも自分の部下だ。何らかの選択をしなければならない。前者の仕事のしやすい環境と後者のそれとが一致する場合はよいが、そうはうまくいかない。なるべくそうしたいと思う。でも、うまくいかない。直接僕が突き上げをくらうときもあるし、間接的な場合もある。部下同士にぶつけあいをさせることも、ある。僕自身が引き受けるしかない時も、もちろん、ある。どちらの場合にも、僕の中の暴力は駆動する。直接拳を振り上げることはないが、言葉は明らかに暴力的になる。他者に対しても、自分に対しても。こういうことを仕事を終っても引きずっている時に、帰りがけの新宿駅で殺意に近い妄想を抱いている気がする。


10.
 僕にとって職場が、仕事が、労働が、暴力を駆動させる大きな要因であることは確からしい。もちろん、それなりの喜びがある場合もあるわけだが。賃労働だか労働力商品だかに不可避的に付随するものとして暴力があるのかどうかは、よく分からない。ただ、仕事にまつわる暴力に、カネと「身分」がつきまとうことは間違いない。人間関係や組織の一般論に解消できない問題が、確実に存在しているように思える。


11.
 仕事なり職場以外の何かしらの人間関係があることは重要だが、それは複数の場があればそのそれぞれで気がまぎれたりするというだけであって――それはそれですごく大事なことだと繰り返し強調しておこう――、人間が複数あつまれば何かしらの齟齬は必ずある。社会運動にだって「親しみやすい人格」(湯浅誠「社会運動と政権」。「世界」2010年6月号)が求められる局面があるではないか! というのはうがちすぎか。


12.
 カネと「身分」がつきまとう暴力。同一価値労働同一賃金が実現していない状況下における暴力、と言い換えられるのだろうか。あるいは、ある程度自分の生活の将来を思い描ける程度の保障が不均衡にしか存在していない状況下における暴力、と言えるのだろうか。よく分からない。


13.
 そもそも椅子取りゲームで椅子に座ったことが、暴力の始源なのだろうか? 椅子取りゲームそのものが問題だ、ということは出来るし、それは多分正しくないことではない。でも……。免罪符はどこにも売っていないことだけは忘れないようにしたい。


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 自分自身が経験したこともない期間工や契約スタッフ、派遣社員その他もろもろの働き方のことを云々するより、自分の仕事や職場のことを通じてしか考えることは出来ないように思える。その先に何かが見えるのか、まだ見当もつかない。

by todoroki-tetsu | 2010-07-07 22:04

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