大澤信亮「批評と殺生――北大路魯山人」

 無謀なことなのは分かっている。おそるおそる記さざるを得ない。大澤信亮さんの「批評と殺生――北大路魯山人」(「新潮」2010年4月号)の読後感である。

 勉強になることは山ほどあるのだが、引用は一点に絞る。

 「自らを問わせるものだけが『他者』なのだ。/困難は目の前にいる他者との出会い直しにこそある」

 文意をどこまで読み取れているのかまったく自信はないが、もっともハッとしたのがこの箇所だった。自分を主語にして「他者」を考える際と同時に、自分は誰かの「他者」になりうるだろうか? とも考えた。

 今、僕はそのままいるだけで誰かにとっての「他者」ではあるだろう。そのままでも良くも悪くも何かを誰かに「問わせ」ているのかもしれない。

 そういうことなんだろうか、ここで書かれているのは……。

 何度読んでももっとも気にかかったのはこの一文で、能動的に誰かの「他者」になることは可能だろうか、などと考えてみたりもしたのだ。

 しかし、引用した一文は、「自然の他者性」について考察している一連の文章の中にある。そのことの意味を、まだつかみかねているのだが、人間同士の関係だけでしか僕はまだ到底考えられていないことは間違いがない。書かれている言葉に何かを思い、それを記そうとすると、いや、そんなことは大澤さんにはもうすべて分かっていて、全部分かった上で絞り出されているという気がしてくる。

 ちょっと途方もない気になってきた。一体、「読む」ということは何なんだろう?
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by todoroki-tetsu | 2010-04-07 14:13 | 批評系 | Comments(0)

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