「怒り」をめぐって

 「原爆批評」の続きがなかなか書けずにうろうろしている。つながるようでいて、つながらないような、そんなことを考えたので少し。

 雨宮処凛さんと小森陽一さんの対談『生きさせる思想』を、興味深く読んだ。

 日常を戦場と捉える雨宮さんの言葉は常に共感するのだが、この中でそうした文脈とは別に首肯したのは、「無条件の生存の肯定」(「生きさせろ!」)に触れた後に続く、

 「おそらくまず自分を肯定できないと怒れないと思います。自分はダメな人間だと思っていると、何をされてもしかたないって諦めると思うんですけど、自分を肯定できると、自分にされたことは不当だと思えるわけですよね。否定され続けている人に、怒れといっても無理な話で、肯定されて初めて怒れるようになる」(P.163)


 という雨宮さんの言葉である。
 
 「何らかの異議申し立てをするのが当然」→「なぜ他人は何も言わないのか?」と思ってしまう人にとっては極めて重要な指摘。もう一方で杉田俊介さんの「ロスジェネ芸術論(1) 生まれてこなかったことを夢見る」(「すばる」2008年8月号)と何かつなげてみたいのだけれども、今はひとまず措いておこう。

 僕自身は思うところがあれば異議申し立てをすべきだと思うけれども、それはそれで自分自身にとってもしんどいことでもあるので、自分も他人も追い詰めない程度にやるのがいいだろう、と思う。

1.タテ軸
 うまいこと言っているな、と思うのはやはり小田実さんであった。

 『世直しの倫理と論理 上』に、「くらしと『人間の都合』」というセクションがある。このおわりのほうで、小田さんはある消費者運動を提起する。

 今までの消費者運動が、カラー・テレビは十万円もして高すぎるから不買運動をする、というスタイルであったとすれば、これからは、カラー・テレビにさけるカネは二万円しかない、だから二万円でカラー・テレビを作れ、と要求していくのはどうか、と小田さんは言う。そして、こう続ける。

 「それはムチャや、と企業――全企業が言うでしょう。言うにきまっている。そんな勝手な値段をつけて。その悲鳴には、次のように答えてやればよろしい。何がムチャや。おまえのほうかて、これまで(ボクらに何の相談もしないで)勝手に十万円という値段をつけて来たやないか。(中略)おたくの都合は企業の都合や。ボクらのは、『人間の都合』や」(p.151 下線部は本文では傍点)


 「人間の都合」から「生きさせろ!」へ……カラー・テレビと、本当に今日と明日をしのぐための衣食住との話の落差に愕然とするが、仮に「人間の都合」を申し立てることが大きなものであったならば、今はどうなっていただろうか、とも思う。「自己肯定」と「怒り」の問題は、極めてスリリングである。

 2.ヨコ軸

 話を今に戻そう。とはいえ、「怒り」を抱くのはしんどいことでもある。一緒に怒れる仲間がいればいいだろうが――雨宮さんは「同志」という言葉を使っておられる――、それを見つけるのも結構難しいものだし、そもそも怒ってすらいない、という場合が少なくないように思える。

 浅尾大輔さんが雑誌「住民と自治」に記されていたエッセイの最終回(2009年6月号)は、極めて示唆に富む。

 派遣仲間に対して「私たち、もっと怒らなきゃ!」と言ったら、そんな風に言えるのはあなたに「余裕」があるからだ、と返された和子さん(仮名)の印象深いエピソードを引きながら、浅尾さんはこう続ける。

 「私は、支える側の一人として、ドアを叩く前の彼女たちの暮らしを、哲学を、交友関係を知らないということ、そして彼女がどんなふうに働いていたのかを見たことがないということ、そのことを忘れないでいたい」(P.41)


 これは、倫理なのか知恵なのか、思想なのか覚悟なのか、なんと表現してよいのやら分からないのだけれども、「知らないこと」「見たことがないということ」を「忘れないでいたい」……この言葉に、僕は衝撃を受ける。

 自己責任は言うに及ばず、社会がどうだ政治がどうだ、なんていう前にまずもって生身の人間として接する際にまずもって大事なのは、きっと、こういう慎ましさなのだろう。誤解を恐れず言えば、「正しい答え」を用意するのが第一義ではない場合がある、ということなのだろう。ちなみに、この最終回のエッセイのタイトルは「『怒り』の手前にあるものを探して」である。

 では、「怒り」の手前にあるもの、とはいったい何なのか? 小川朋さん編著の『派遣村、その後』は、「手前にあるもの」を、当事者に即して捉えるべく格闘しているように思える。

 真山さんという、派遣村の元「村民」を追った箇所(P.62-9)。どうにも要約出来ないのでぜひお読み頂きたいのだが、ネットカフェ暮らしで「人生の望みを九九パーセント達成した」と言う彼女を追ったルポの最後は、こう締めくくられる。

 「満足できる人生に欠けている、あと一パーセントのなかには何があるのか。しばらく考えたあと、真山は『それはわからないなあ』と答えた」(P.69)


 そう、「わからない」のだ。「わからない」ことをそれとして受けとめる、否、受けとめ続けることが必要なのだろう。仮に一パーセントがわかったとしても、それで何がどうなるわけでもないのかもしれないし、ひょっとするとその一パーセントが、雨宮さんのいう「自己肯定」だったり、和子さんが仲間に言われたところの「余裕」になりうるかもしれないが、それすらも、「わからない」。
 
 「怒り」――社会的な、と添えておこうか――が、「自己肯定」や「余裕」を担保にせざるを得ないとしたら? という問いを立てられるのかもしれない。それほど、社会的な「怒り」をめぐる情況は深刻だと思う。同時代の文学者、ライター、批評家、実践家、研究者、そして当事者の言葉を、注意深く追っていきたい。

 
[PR]

by todoroki-tetsu | 2009-11-12 04:44 | 業界 | Comments(0)

<< 「祈り」をめぐって――原爆批評... 浅尾大輔『ブルーシート』読了 >>