人気ブログランキング | 話題のタグを見る

「現在」に引きつけるための準備――「原爆批評」メモその2

 『われなお生きてあり』を手掛かりに「原爆批評」について考えたその1につづき、では、現在の地平で原爆の問題をどうとらえるか、という問題について。

 ありていに言おう。僕は、核兵器はなくなったほうがいいと思っている。数ある兵器の中で核兵器だけを特別扱いするいわれはないのかもしれない。その意味で核兵器に限定するつもりはあんまりないのだが、キツすぎる兵器、無差別に人を殺す/が殺される兵器は、やっぱり格段に怖いと思うから。

 これはあまりに素朴すぎるといわれるかもしれない。それでいいじゃねぇか、という気持ちが半分、もう少し勉強しなきゃな、と思うのがもう半分。実に宙ぶらりんである。

 勉強といっていいのか分からないが、たとえばその1であげたような各作品からだけでなく、二人の若者の死を描きながら「日本に愛想づかしする権利」を説いた大江健三郎さんのエッセイ(「日本に愛想づかしする権利」、初出1965、『厳粛な綱渡り』、講談社文芸文庫、所収)などは僕にとって有益である。

 同じく大江さんの言葉を、二つほど掬いだしてみよう(なお、大江さんは1935年生まれであるから、これらの言葉は30代前半につづられたものである)。

 「なぜヒロシマ、ナガサキが記憶しつづけなければならず、そこにいまなお埋れている真実が更に発掘されつづけなければならぬか、といえば、それは世界で核戦争の現実をみずから体験した人々がそこにのみ、なお生き延びているからにほかならない。われわれの核戦争への想像力を検証する現実的な力をそなえた人々がそこにいるからにほかならないのである。ヒロシマ、ナガサキについて具体的に考えつづけることによってのみ、われわれは核時代を『なおも生きのびようとする』民衆としての根本的な資質を確かめうるのである」(「核基地に生きる日本人」、初出1968、『持続する志』、講談社文芸文庫、P.198)

 核時代、という「大きな物語」が前提とされているが、それは当然のことだったろう。福田さんの『われなお生きてあり』もこの年の出版だ。「物語」などではなく、目の前の現実として、被爆者の直面する困難があったのだ。「われわれの核戦争への想像力」という言葉はある程度時代を超えた普遍性を持ちうるものである。しかし、これが記されてからさらに40年、「想像力を検証する現実的な力をそなえた人々」――「他者」と置き換えてもよい――がもはや少ない、という現実に直面する。

 だからといってこれは失われていい類の想像力ではないだろう。もう一歩進むための手掛かり。

「われわれ民衆は、恐怖するものとしてか、あるいは、殲滅されるもの、としてのみ、核戦争に参加する。恐怖するものとして、われわれは核時代のエスカレーション体制を、裏面から支えている。この惨めな役割につく資格は、われわれが殲滅されるものであることをもってのみ保証されたのである」(「核時代の暴君殺し(タイラニサイド)」、初出1969、『壊れものとしての人間』、講談社文芸文庫、P.106)
             *下線は本文では傍点。

 核兵器がある状態におかれた「われわれ民衆」の「惨めな役割」。これは単に被爆者という「他人」が直面する困難について思うというような「想像力」では勿論、ない。誰もが被爆者となりうる時代に生きているということの意味、それを自分自身に引き付けて考えるヒントが、ここにはある。

 ぐっと最近になるが、鶴見俊輔さん(1922年生まれ)のインタビューが昨年の「すばる」(2008年6月号~8月号)にて掲載された(*1)。「鶴見俊輔 思索の道筋」と題した一連のそれを締めくくるのが「原爆からはじめる戦後史」(「すばる」2008年8月号所収)である。

(*1)先日送られてきた新刊情報からみて、作品社さんから近々出版される『言い遺しておくこと』がこのインタビューをまとめたものになるのではないかと思われる

 ご自身が(あるいは実際に被爆した丸山眞男さんも)、原爆というものをどうとらえたらよいのか、と苦心されたことを率直に吐露している。その上で、広島と長崎で二重に被爆した人の言葉を手掛かりに、「自分たち(*2)がもてあそばれたような気がする」というのが「原爆のもつ真実の意味」だとし、「戦後史というのは、ほんとうはここから考えるべきなんですよ」(P.189)、と説く。

(*2)文脈からは「被爆者」に限定されるようにも思われるのだが、もっと広く、被爆者になりうる私たち、と言い換えてもよいだろう。

 「恐怖するもの」、「殲滅されるもの」、「もてあそばれ」るものとしての私たち……こう続けてみると「被害者」としての面しか見えてこないようにも思える。そうであるともいえるし、そうでないともいえる。

 「今日の戦争反対の思想は、未来の戦争において自分は被害者でありたくない、被害者であるということを拒否するという思想であると同時に、未来の戦争における加害者でありたくない、加害者であることも拒否する、という思想でなければならない筈です」(大江健三郎、「記憶と想像力」、初出1966、『持続する志』、講談社文芸文庫、P.40)

 
 を引くことは出来るが、ここはやはり小田実さんを参照せざるを得なくなってきたようだ。恥ずかしながらほぼ未読、この機会にチャレンジする。その上で、「ロスジェネ」「フリーターズフリー」への接続を試みよう。

 ……うーむ、思いつきをつぶやいただけなのがずいぶんと大事(おおごと)になってきた(笑)。もっとも、自分の中だけだけれど。まあいい、せっかくの機会なのでもう少し考えてみよう。

by todoroki-tetsu | 2009-10-20 19:48 | 批評系

<< 浅尾大輔『ブルーシート』読了 『われなお生きてあり』――「原... >>