掬いと救い――小熊英二『1968』読了

 小熊英二さんの『1968』、、を読み終えて少し時間がたった。

 自分のtwitterを読書メモがわりにしたのだが、この件は別稿で記してみることにするとして、読後思うところをいくつか。

 僕は小熊さんの熱心な読者ではないが、この本については前々から出る出るといわれて延びていたのだったし、まあ、ネタで一応は買っておこう、という程度のものであった。そのうち気が向いたら読めばいいな、と。で、パラパラとめくり始めたら結構おもしろかったのでわりあいに持続して読み進めることができた。

 読みながら考えたことを整理すると、

1)では、自分だったらどうする/したのか?

2)「言葉」の力について

3)「問い」を継承するということ

 の3つになるだろうか。

 1)なら、セクトに入る/入らないだけでなく、その選択をした後も何をどう引き受けて生きていこうとするのか、という問題に置き換えられるだろうか。運動の高揚と持続の難しさ、就職を前にしての戦線離脱あるいは何かを引き受けようとする覚悟、政治運動としての判断、新宿での暴動、内ゲバ、保身……目をそむけたくなるような行為もあれば、素晴らしい行為もある。ある情況にさらされた人間の、ありとあらゆる「型」が描かれているように感じられた。読んでいるお前はどうなんだ? と問われている、という感覚がずっとつきまとった。ある意味で極めて個人的な読み方ではある(どんな読み方もそうだといえばそうなのかもしれないけれど)。

 2)は、「現代的不幸」をめぐってである。このキーワードは本文中に繰り返し出てくる。が、問題は「現代的不幸」そのものではなく、これをうまく自分たちで「言葉」に出来なかった、ということにある。そして、その課題は継続しているんだ、というのが小熊さんの言わんとするところだろう。「言葉」とは世界や社会の切り取り方そのものなのだろうな、と漠然と思ったりするのだが、これは本当に大切なこと。ただ、現在の「批評」の中からきっと何かが見えてくるだろうな、とやや楽観視してはいる。同時代の批評家から、きっととてつもない言葉が繰り出されるに違いない、と信じている。

 3)「問い」の継承。丸山眞男的な物言いにどうしてもなってしまうけれども、「戦後民主主義批判」をした当時の学生たちのいわば外在的批判も批判されなければならないが、そうした当時の学生たちが発した問いも継承出来ていないのではないか、という思いを抱く。無知だと言われればそれまでだが、僕は社会運動は連合赤軍に行きつくとまでは言わないが、そういう危険性はある、と漠然と思っていた。あ、必ずしもそうではないんだな、自分自身も漠然とした思いだけでちゃんと「問い」を立てていなかった=思考停止になっていたのかな、と気づくことが出来た。

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 莫大な紙幅だが、必要な記述だったと、改めて思う。これでもかと繰り広げられる様々な行為をあらゆる側面から掬うことで、「あの時代」を、そして今なお継続する「現代的不幸」を、救おうとしている。学ぶところは多い。
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by todoroki-tetsu | 2009-09-06 23:44 | 業界 | Comments(0)

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